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蝸牛廬文庫目録(3)概説

(『蝸牛廬文庫目録(3)』(平成7年3月25日発行、池田市立歴史民俗資料館)の解題を転載)

(1)蝸牛廬文庫の成立

 「蝸牛廬文庫」とは、もと故林田良平翁の書斎号であり、翁が所蔵した資料のうち、池田市立歴史民俗資料館に収蔵された資料の総称として継承している。本文庫は、大きく古文書類・書籍類・書画軸類とそれらに付随する資料から構成され、総数5000点を越える膨大な資料群である。

 本文庫は良平翁の曽祖父林田林叟(1822~1901)のころから形成がはじまり、父林田安平(炭翁 1873~1955)の代に「蝸牛廬文庫」と命名された。この文庫を継承した良平翁は、長年にわたりその保全に携わるかたわら、さらに系統的な収集を図り、充実につとめてこられた。
 ところで、池田における林田家は、本姓は乾氏であったといわれ、林叟翁の時、川辺郡林田村(現兵庫県川辺郡猪名川町林田)から池田に出、炭商を営み、また、「群雀」という商標で酒造業も営んだといわれている。とくに、幕末には家業が栄えたという。
 林田林叟翁は、本名を良平といい、幼年から学を好み、とくに、豊後日田の学塾咸宜園を経営した広瀬淡窓の末弟である儒学者広瀬旭荘に師事し、漢詩人としても知られている。また、晩年の旭荘を池田に招聘した中心人物であったといわれている。翁は、一方で、奇行の人ともいわれ、旭荘は、「宜園百家詩」のなかで翁を「往来牛を牽いて詩を詠じ、人称して牡丹花肖柏の流れとなす。」と紹介している。翁の業績は、「林叟遺稿」(大正15)として遺されている。
 林田安平翁(本名松三郎)は炭翁と号し、同じく好学の士として知られ、鎌垣春岡に師事、漢詩人としても名をなしている。翁は、池田史談会の創立メンバーのひとりとして、さらに、昭和27年、子息の良平翁とともに池田郷土史学会を設立し、その運営に尽力された。翁の注目すべき仕事として、「鍋牛廬唱和集」(大正13)・「夢菴芹藻集」(昭和3)・「箕山勝遊詩文集」(昭和4)・「露の玉くし」(昭和8)の編著、出版があり、とくに、「蝸牛慮唱和集」の制作に際しては、自らの草廬壁詩に全国の人士に唱和を求め、翁の漢詩人としての地位を確立したものである。
 また一方で、明治末年及ぴ大正末年に池田町長に再度就任し、町政の規範粛正、池田山増林、戸数割の改革の断行、町役場の新築、学校の改築などに辣腕を振るった。
 林田良平翁は、明治33年、父安平、母しつの長男として池田に生まれた。本名は明三であったが、曽祖父の名を継いで、早くから良平を名乗っている。翁は、池田をはじめとする北摂地域の郷土史研究に携わる傍ら、池田郷土史学会の運営、池田城跡の保存や池田市立歴史民俗資料館の設立などに尽力された。また、父炭翁とともに皆川庸匡に師事し、和歌、さらには、俳句、漢詩文にも深い造詣をもたれた。

 本目録に収録された内容は、池田を中心とした北摂地域の歴史・文化全般にかかわる資料を中核とし、さらにこれらの関連資料、また、安平・良平父子の嗜好によって収集された資料から構成されている。ここでは、かりに池田という地域を中心に形成された一定の文化的完結牲が存在するという前提で、池田文化という概念を設定し、その概要を述べながら、本文庫資料の解題をしるすことにする。

 

(2)池田の和歌・俳諧

 池田文化の成立の発端は、南北朝以降池田を中心に勢力をもつ北摂の有力な国人池田氏とかれらのもとに往来した松下正広・飯尾宗祇・牡丹花肖柏らの連歌に求めることができる。15世紀後半のことである。文明4年1482)宗祇らが摂津湯山(有馬)ヘ向かった折、池田正種はかれらを招き「何人百韻」を興行している。この種の興行はその後何度もこの地でもたれることになった。明応4年(1495)宗祇らの手によって編まれた「新撰菟玖波集」には、正種・正盛・綱正をはじめとする池田一族が名を連ねている。

 池田でもっとも注目される肖柏は、正盛との関係が深く、かれの庇護のもと居を京都からこの地に移し、「夢庵」を結んだ。池田到来の時期は明確ではないが、15世紀末から16世紀初頭のこととされている。肖柏によって「池田千句」・「春夢草」などが編まれた。本文庫には池田氏ならびに肖柏の資料を多数に所蔵している。
 肖柏が去ってから、池田は文化的に一時低迷な時期を迎えるが、17世紀半ぱ、明暦のころ、まず、和歌・俳諧にみるべき動きが現れる。松永貞徳の俳諧に親しむ佐伯一族の名が貞徳門の安原貞室編「玉海集」にみえ、寛文年間には同門の津田道意(1605~1696)が池田に居を移している。その後西山宗因の談林俳譜が隆盛し、かれ自身池田の酒造家菊屋を訪れている。さらに貞徳の孫弟子平間長雅(1635~1710)が池田久安寺に隠棲し、「三十三首和歌」などを編み、この地に大きな影響を与えた。また、17世紀後半には阪上稲丸(1654~1736)が出、池田の名所・旧跡などを詠んだ「俳諧呉服絹」を編んだ。以上の人々の資料の集積もまた本文庫の一つの特色である。
 一方、呉春の到来に触発された天明年間から19世紀前半、文化・文政期は、池田の和歌・俳諧が全盛を極めた時期にあたる。蕪村の門人で大阪の江森月居がしばしば池田を訪れ、同じく蕪村の門人で池田に呉服の出店井筒屋をもった川田田福・酒造家大和屋山川星府(1761~1824)らに続いて、酒造家菊屋の井関左言(不詳~1819)・井上遅春(不詳~1821)・二条家の俳諧興行に招かれた松下一扇(1794~1830)や阪上呉老(不詳~1834)らが輩出している。かれらは、たとえぱ遅春が稲丸の追善に「石蒜露」を、また、池田の名所・旧跡を詠んだ「呉江奇覧」や「川千鳥」を編み、一扇は「月並詠草」・「はつ鶏」をはじめとする稿本を遺し、呉老は「ふみふくベ」などを著した。本文庫には林田良平翁の丹念な収集によって、池田の俳諧資料はとくに充実した収蔵ぶりをみせている。多量の一扇と遅春の自筆稿本は特色あるコレクションといってよく、化政期の大阪俳書もまた豊富に揃っている。
 その後幕末の社会混乱によって歌壇・俳壇もしだいに低調となるが、伊丹の歌人であり国学者であった中村良顕や伊居太学館を開塾して和歌を教授した皆川庸匡らによってその命脈が保たれた。この人たちの資料はとくに本文庫に多い。林叟の時には大国隆正・件林光平と、炭翁の時代には鎌垣春岡・お歌所寄人阪正臣らとの親交によって、それぞれの著書と作品が本文庫に遺され、明治以降についてもその広がりを見せているのである。
 池田の近代俳句は、とくに、青木月斗の色彩が強く、大正から昭和にかけて月斗門下の神田南畝や藤田露紅らが活躍した。こうした近代資料も豊富に、かつ、体系的に収録されていることは注目されるところである。

 

(3)池田の学問・漢詩文

 和歌・俳諧に遅れ、18世紀前半から漢詩文をはじめ儒学・国学にも新たな動きが見られるようになる。まず、享保9年(1724)、田中桐江(1668~1742)の池田への来住である。桐江は、もと儒学を以って柳沢吉保に仕え、正徳3年吉保の奸臣を斬ったことにより江戸を出奔、仙台に身を寄せ、その後摂津芥川光徳寺の僧独麟(1677~1741)の招きにより池田木部の東明寺に隠棲した人物で、漢詩人としても知られている。

 桐江のもとには独麟・高階氷壺・荒木適翁(1689~1748)・平野端的斎(不詳~1769)・清地以立(1663~1734)・富永仲基の弟荒木蘭皐(1717~1767)ら多くの好学の士が集まり、詩文結社「呉江社」を設立した。呉江社の門人によって歳首歳晩の詩作を毎年1冊づつ多年にわたり編まれた「呉江水韻」や「箕山賞楓」、また、桐江が門人らのために制作した詩文集稿「樵漁余適」などを収蔵する。桐江・独麟らの自筆のものとともに、いずれも珍重すべき資料ばかりである。
 桐江によって活性化した漢詩文は、かれの門下であった蘭皐の子、荒木李谿(1736~1807)によって盛期を迎える。李谿は、後年親交があった頼春水がその才を絶賛した人物で、池田はもとより懐徳堂や混沌社のひとぴととも密接な関係をもち、備後の文人菅茶山の来訪も受けている。本文庫にはかれの稿本である「間居雑興」・「大東昭代詩紀」をはじめ、多数の詩稿を蔵し、書家として知られた弟荒木梅閭の自筆作品をも多く所蔵している。中井竹山・中井蕉園・頼春水・頼山陽・篠崎小竹ら、李谿を取り巻く人たちの作品も充実している。
 しかし、この隆盛も李谿が文化4年(1804)、さらに弟梅閭が同14年に没し、池田は求心的な人物を失い衰微を余儀なくされた。
 この中にあって当時池田最大の酒造家西大和屋の当主山川正宣(1790~1863)が頭角を現した。かれは、京都上賀茂神社の神官賀茂季鷹に師事し、和歌・国学を修め、大和薬師寺にある仏足石の碑文に関する論攷「寧楽西京薬師寺仏足石和歌」や神武天皇から平城天皇にいたる御陵に関する「山陵考略」などを著している。本文庫には「寧楽西京薬師寺仏足石和歌」の稿本をはじめ文政9年・天保13年・安政3年・明治35年版のものを網羅し収蔵している。また、儒学者広瀬旭荘(1807~1863)が前述したように、林叟らの招きによって大阪から池田宮の下に居を移した。しかし、すでに健康を害していたこともあり、わずか75日でこの地に没した。良平翁は旭荘の日記「日間瑣事備忘」の池田記事をわざわざ書写して文庫に備えている。
 明治・大正以降、林田炭翁の存在は池田の漢詩文の伝統を保持するものであり、逍遥遊吟社同人が蝸牛廬に来往して多くの書画冊をのこした。また、既述したような炭翁の著書が遺されている。

(4)池田の絵画

 池田をめぐる絵画の流れは、四条派の始祖呉春の存在があまりにも大きく、池田の名のもとに語られる画人は、天明年間、わずか10年をこの地で過ごした呉春に始まり、かれをもって終わるかの感がある。むろん、この段階の呉春は、その改名のときにあたり、伸張著しい時期であったことは事実である。

 しかし、池田にも呉春以前に狩野派の画家桃田伊信(不詳~1765)が17世紀前半に活躍し、呉春に師事した酒造家葛野宜春斎(1771~1820)や呉服神社神司馬場仲文(馬寅 1776~1830)が出ている。仲文没後絵画の方面も低迷を続けるが、明治末、小林一三が池田に居を移したこともあり、大阪四条派の須磨対水や国画創作協会に参加した樫野南陽らが池田に到来した。以上にあげた人々の作品もまた本文庫に所蔵するところである。そして、応挙・呉春・景文・豊彦・竹田・芳園ら諸家の追薦展観の目録が揃っているのも、こうした小冊子の散佚しやすい現状では、貴重視されてよい。

(5)その他の資料

 以上、池田文化という概念が成立するとの前提で和歌・俳諧等の視点からその概要を述べた。

 ところで、本文庫には、以上のほかにも多くの地図類や多種多様な絵葉書などもあり、注目すべき資料となっている。また、源頼光・安徳帝・楠正成・赤穂義士・天誅組・維新志士に関する資料のように池田および北摂地域との関連もさることながら、むしろ、勤皇家であった林田家の嗜好に基づいた収集も見受けられる。そしてさらに林田良平翁の稿本・写本・拓本が多量に残されており、さらに、300冊になんなんとする蝸牛廬句会の句稿も保存され、これを主宰した林田家がもった文雅の風を知るに足り、これらをとおして多くの同好の士とのやりとりも浮び上がってくるのである。
 またさらに、加藤千蔭の自筆「歌稿」、橘守部の自筆稿本「長歌大意」、熊谷直好の自筆書入りのある「徒然草」万治刊本などの、国文学史の上でも注目すべき貴重資料を所蔵している。
 今後これらの資料のより詳細な検討をとおして深まり、林田家三代が残した多大の遺産が、さらに、より一層の研究成果がひろく活用されることが待たれる。


参考文献
・稲束猛・吉田鋭雄「池田人物誌」上・下 1922・1923
・林田良平「近世池田の文人展望」(池田市立歴史民俗資料館昭和56年度特別展
 「近世池田の文人」図録)池田市立歴史民俗資料館 1981
・田中晋作「池田文化と大坂」(池田市立歴史民俗資料館平成4年度特別展「池田
 文化と大坂」図録)1992
・肥田晧三「林田良平」(「大阪春秋」70) 1993

資料の分類について

 本目録に収録された資料概要は、すでに凡例において示したところであるが、既刊の『蝸牛廬文庫(2)』(以下前書という)に収録された書籍類と相互に密接な関係を持ち、本解題で述べた主要な書籍の大半は前書に収録されているものが多い。
 前書の体裁は、書名の五十音順によって編成しているが、弊館ではそれとは別個に、肥田晧三先生の指導による分類整理を行っている。その分類表は左記の通りである。この分類を参照していただくだけでも本文庫がもっている特色を十分に理解していただけるものと考える。

総記

  1. 総記
  2. 北摂資料
  3. 大阪資料
  4. 林田家・稲束家資料

思想

  1. 中国古典哲学
  2. 鎌垣春岡叢書
  3. 日本思想(国学)
  4. 仏教書
  5. 西国巡礼
  6. 宗教

歴史

  1. 歴史
  2. 源頼光
  3. 安徳帝
  4. 楠正成
  5. 赤穂義士
  6. 天誅組
  7. 維新志士・ 明治史
  8. 多田院・多田庄
  9. 池田氏
  10. 山川正宣
  11. 伝記
  12. 後藤捷一

社会科学

  1. 法制
  2. 古銭
  3. 教育
  4. 女訓書
  5. 懐徳堂
  6. 数学・相学・物産・技術

芸術

  1. 美術
  2. 絵画
  3. 書道・法帖
  4. 篆刻
  5. 諸芸(茶・碁・弓)
  6. 謡曲

語学

文学

  1. 文学
  2. 和歌
  3. 家集
  4. 中村良顕
  5. 連歌
  6. 俳諧
  7. 与謝蕪村
  8. 松下一扇・井上遅春
  9. 漢詩文
  10. 田中桐江
  11. 清地以立 
  12. 荒木李谿・梅閭
  13. 頼山陽
  14. 橋本香波
  15. 中国古典文学 
  16. 狂歌
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