![]() 18世紀前半から漢詩文をはじめ儒学・国学にも、「池田学派」とも言える池田独自の動きが見られる。 「池田学派」の形成は、享保9年(1724)仙台より池田に居を移した儒学者田中桐江に始まる。桐江を盟主とする「呉江社」が設立され、彼のもとに多くの好学の士が集まり、その影響力は摂津一円に及んだ。 桐江によって活性化した漢詩文は、かれの門下であった荒木蘭皐の子、李谿によって盛期を迎える。李谿は、頼山陽の父春水がその才を絶賛した人物である。彼は、池田を大阪の町人学問所である懐徳堂や漢詩結社混沌社と結ぶ太い文化のパイプ役となった。 李谿が文化年間に没すると、「池田学派」は衰微を余儀なくされた。 この中にあって、当時池田最大の酒造家の山川正宣が、「寧楽西京薬師寺仏足石和歌」や、神武天皇から平城天皇にいたる御陵に関する「山陵考略」などを著して、頭角を現した。また、大阪で活躍した儒学者広瀬旭荘も、短い期間とは言え池田宮の下に居を移した。
●池田学派を現在に伝えた人物:稲束猛と吉田鋭雄 江戸時代、池田に「池田学派」なるものが存在したことが現在に知られるのは、大正から昭和にかけて池田にあったふたりの人物の業績によるといってよい。ひとりは、池田の素封家に生まれた稲束猛、そして、懐徳堂記念会に籍をおいた吉田鋭雄である。かれらふたりの手になった『池田人物誌』、また『池田叢書』は往時隆盛をきわめた池田文化を詳述した名著である。 稲束猛は、明治22年に池田に生まれた。稲束家は、江戸時代から池田屈指の素封家で、とくに父芝馬太郎は蕪村・呉春をはじめとする蔵幅家として知られていた。同家では芝馬太郎のもとで明治から大正にかけて一種の文化的サロソが形成されていた。猛も京都帝国大学文学部哲学科卒業後、蕪村・呉春・大阪画壇などに関する論攷を発表するかたわら池田文化の顕彰に努めている。しかし、残念なことに学半ばにして昭和2年、39才で夭折した。 一方、吉田鋭雄は、明治12年大阪市に生まれ、大正5年から懐徳堂記念会に籍をおき、池田には明治45年から居を構えている。かれは東洋哲学の研究家として、また、他に先駆けて富永仲基の研究に着手するなど多くの業績を残し、その旧蔵書は現在大阪大学図書館に北山文庫として引き継がれている。 (平成4年特別展『池田文化と大坂』図録p19より転載) homepage&photo(c)池田市立歴史民俗資料館 リンクは自由ですが、無断複製・改変・流用・再販等は禁じます。 |