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更新日:2015年2月1日

日野草城と池田

日野草城と池田

 昭和24年、戦後の混乱が続くなか、日野草城は池田市中之島町(現池田市石橋1丁目)に居を構えた。東西から日光が存分に射し込むことから命名された書斎「日光草舎」ではあったが、病魔に侵された草城は戸外へ出ることもままならず、54歳で没する昭和31年まで病床での創作活動を余儀なくされた。

極端な早熟型

 近代俳句を語るとき、水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十といういわゆる「4S」のまえに草城の存在がある。かれの存在が4Sの全盛を導いたものといっても過言ではない。草城を本格的な俳句の世界にいざなったのは、お手討の夫婦なりしを更衣という蕪村の句との出会いであったという。大正7年、第3高等学校に入学したころである。同9年には京大3高俳句会を設立、さらに、雑誌『京鹿子』を創刊するにおよんだ。
 同10年、弱冠19歳にして『ホトトギス』雑詠の巻頭を占め、同13年には課題句選者にまで推されることになった。かれの処女句集『草城句集(花氷)』の序文に虚子は「私はこの青年が3高の生徒であることに意を強うした」と期待の言を寄せている。かれの早熟さを端的に示すものといえる。京都大学卒業後、かれは大阪海上火災保険株式会社(現住友海上火災保険株式会社)に入社、いわゆる企業のエリートとしての歩みをはじめる。

ミヤコホテル

 昭和9年『俳句研究』に発表された「けふよりの妻と来て泊つる宵の春」にはじまる「ミヤコホテル」は、結婚初夜を連作型式によって俳句にまとめたもので、当時の俳壇の論議の的になった。昭和初期には、新婚初夜を俳句の題材とすることなどはタブーであった。その後、新興俳句運動の旗手としてのかれの行動は、『ホトトギス』の指針と大きく掛け離れ、昭和2年には同人を除籍されることになった。

日野草城「ミヤコホテル」十句

『青玄』創刊

 戦時色が日増しに濃くなり、言論の統制はいやがうえにも厳しさを増した。戦時下一時沈黙を守った草城ではあったが、終戦を迎え、豊中市桜塚でふたたぴ創作活動を開始する。しかし、終戦前後の無埋がたたり、昭和21年から胸を病み、同24年池田に居を移したころにはほとんど病床をはなれることができなくなっていた。このような中にあって、同年「俳句は東洋の真珠である」の言葉を添えた『青玄』が池田の地で創刊された。昭和30年、虚子はふたたぴ草城を『ホトトギス』の同人に迎え、日光草舎にかれを見舞った。残念なことにかれに残された時間はすでにいくばくもなく、翌年1月病床から発せられたエネルギーはついに終熄した。
 かれの都会的で洗練され、清新かつ明晰な作品は、大正以降新たに台頭してきた新興インテリゲンチャのまさに象徴ともすべきもので、新しい階層が生み出した流れであるといってよいかもしれない。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ15-16より転載)

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