平成26年度 ふくまる教志塾開塾式

更新日:2021年02月01日

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第4期ふくまる教志塾?多様なメンバーでスタート

 平成26年度の第4期ふくまる教志塾が、いよいよスタートしました。本年度の塾生募集に当たっては、これまで以上に、大学に出向いて「ふくまる教志塾」のPR に努めた結果、例年を上回る塾生の応募がありました。「ふくまる夢たまごセミナー」と「現場実習」の両方に参加する塾生と、セミナーのみに参加する聴講生を合わせて40名を採用しました。

(写真)セミナー風景
(写真)セミナー風景

 この十年、一般企業への就職についてもインターンシップの機会が設けられたりしていますが、教職を希望する学生に対しても、インターンシップや学校ボランティアの活動をする機会が増えています。池田市においては、連携協定を結んでいる大学を通して学生を受け入れています。教職科目の一環として学生を受け入れているのは、大阪大学1回生の「総合演習」(20名)、同4回生の「教職実践演習」(41名)、大阪総合保育大学と関西国際大学の1・2回生のインターンシップ(両大学で計6名)です。この他に、関西大学の一般学生のインターンシップ(3名)を受け入れています。さらに、各学校園は、卒業生を中心に、それぞれ数名の教育実習生を受け入れています。
 各学校園には、後輩の教師を育てるとともに、学校園の活性化につなげてほしいとお願いしていますが、一方では、これだけ多数の学生の面倒をみるのは大変で、現場の先生方に負担をかけています。
 池田市教育委員会では、学校園の現場に派遣する学生に対して、基本的にはガイダンスの機会を設けて、学生が明確な目的意識をもって現場で学ぶように指導しています。特に、ふくまる教志塾の塾生の場合は6ヶ月を越える長期の実習になりますから、学校に出向いての指導も行ないます。

5月30日?第4期?開塾式・記念講演

 5月30日(金曜日)午後6時より、第4期ふくまる教志塾の開塾式及び記念講演会(第1回セミナー)を実施しました。開塾式では、塾長のふくまるくんを迎えて、教育委員会を代表して阪本教育部長が激励のあいさつをしました。その後、第1回「ふくまる夢たまごセミナー」として、立命館中学校・高等学校 校長 成山治彦 先生(大阪人権博物館館長)の記念講演を聴きました。

(写真)開塾式風景
(写真)開塾式風景

【記念講演】?「教えることと学ぶこと」?成山治彦?先生

 みなさん、こんにちは。3月で大阪教育大学監事を退職し、7年前までは大阪府教育委員会で、みなさんを採用する立場にいました。この4月からは、京都市伏見区にある立命館中学校・高等学校の校長をしています。
先生の仕事は激務です。みなさんの中には、教育実習の経験者が半分くらいいますね。教育実習に行くと、立場が変わります。学んでいる大学生の立場から、教える実習生の立場に変わります。教育実習の経験者の人に聞きます「教育実習で何が変わりましたか。」一言で言うと、聞く立場から話す立場に変わります。180度違います。受動的な立場から、能動的な立場に変わります。単に授業を受ける立場で先生を眺めていると、先生の授業に向かう準備というのがどれほどのものかというのがわからないので、そのご苦労を推し量ることができなかった。しかし、いざ教壇に立ってみると、その1時間といえども、その1時間の準備をするのに何時間もかかっている。準備時間も含めると、10時間分、1日分、いや1週間分の集積したものがここへ来ている、というのがわかる。ということは、見えているものは、教室で先生が口角泡をとばして何か言っている、黒板にモノを書いている、しかし、それは、今見えている現象であって、そこに至るプロセスは想像するしかない、ということがわかりますね。それも、教えることと学ぶことの違いかもわからない。
みなさん方は、立場が変わって教師になる。そうすると、今日まで受動的に学んでいて、目に見えていることだけを見ていた立場から、見えていないものまで推し量りながら、単に聞くだけではなくして、話すことによって能動的に働きかけるという、教える立場に180度転換する。そのことを通じて、教育実習の間にいろいろと気付くことができるかもわかりません。これから教育実習に行かれる方は、何に気付いて何を発見するかということをメモっておいてもらいたい。私は、気付いたことをスマートフォンにメモし、後でそれを整理して活用する。
レジメの1「子どもの心が分かりますか?」に入っていますが、世の中には「見えることと見えないこと」があるということにまず気付いてほしい、ということが、私の最初に申し上げたいことです。私は2年続けて震災のあった東日本に行って、石巻と松島、南三陸町を訪れてきた。松島では、海は穏やかで静かでした。ところが、漁師が海に行けない。石巻で、防災センターがむき出しの赤茶けた鉄骨のままで、まわりには何もない。津波に襲われて流されて、更地のような状態で、ここに家があったかなーと思わせるのは、基礎のブロックが低くあるだけだった。防災センターの前に霊を弔う花や供物があって、手を合わせておられる方がいらっしゃった。その中の一人のお父さん。防災センターで最後までマイクを握って「みなさん、逃げてください、津波です」と、声をからすかのように叫んでいた女性職員の方が亡くなられた。その姿を見て、漁師だったお父さんは、「海には行けない。恐ろしくて、怖くて行けない。まだ、海に行っていない。」と話された。ところが、漁師仲間が、「そうかも知れんけどナー、海に出かけて投網をかけたてみたら、もしかしたら娘さんが揚がってくるかもわからない。」と言われた。網を投げ入れて、泣きながら娘の亡骸を引っ張ってこなければならない父親の悲しみというのは推し量ることができると思います。そのお父さんは海に出かけました。
その話を聞いたときに、海は波一つ立たないで穏やかに静かな水面を讃えています。そのことを知らないで行ったら、「ああ、松島の海はきれいだなあ、やっぱり日本三景と言われるだけのことはある。」と思って帰ってきたかもしれない。しかし、実際は、あの海の底にどれだけの人とどれだけの家屋、あるいは思い出、大切なもの、かけがえのないもの、を一杯含みこんで、松島の海は静かである。あの東日本大震災に遭った子ども達は、たぶん受けとめ方が違うんだろう。そこのところは見えないんです。見えているものだけで判断していると、私たちはモノを深く考えないかもしれない。むしろ、見えないものの中に本質があるかもわからない。
なぜ、この話を冒頭にしているかというと、子ども達というのも、この海とおなじように、見えているものだけを追っかけて、教師しとしての仕事ができるかというと、そうではないんですね。見えている現象はいろいろあるけれど、実はその現象の裏側にある見えないものに教師が心をおもんばかる、思いを馳せる、思いを遣る、見えないところに自分の心を届けることによって、そこからリターンされてくる心の叫びをキャッチできたら、教師は、少し、子どもに寄り添うことができるかと思います。
だから、レジメにある「一人一人を大切にする」ということをよく言うんだけれども、教育実習で授業に行くと「何でこんなやさしい問題でけへんのや。」これは、教える立場になったとたんに出てくる言葉で、学んでいるみなさん方は、自ら「何でこんな問題、やさしい問題ができないのか。」と自問自答はしませんね。それができたら素晴らしいですが・・・。立場が違って教壇に立ったとたんに、モノの考え方が違って、上から目線になってしまうんです。「どうしたら子どもはやる気になるんやろかな。」と考え、悩んでいる先生はすばらしい。一刀両断、何であの子はやる気がないんや、ダメや、ほっといたらええ、相手にせえへん。」という風に言ってしまう先生は伸びない。「どないしたらやる気がでるんやろ。」と考えてくれている先生は、どんどん成長する先生だと思いますね。それで、よく聞く言葉だと思うんですけれど、「子どもに寄り添う」あるいは「子どもに向き合う」という言葉があります。目の前の子どもの見えない所にどういう心が働いておったり、波風が立っておったり、その見えない生活の所ではどんな生活をしているのだろうか、ということに思いを馳せることができるかということが、「子どもに向き合う、寄り添う」ということばである。
そこで、ある研究会でご一緒した小学校1年生の担任の先生から聞いた話だが、ある一人の1年生にてこずって、1年間、どうしてもその子がなつかない。最初は、なつかないということでその子をバカにしていた。そして、その子の攻撃の矛先が自分に向かうようになった。「私、教師失格違うかな。小学校1年生の小ちゃな子を指導でけへんのが許されへん。あんだけ、大学でも勉強してきて自信もあったのに。」そう思って落ち込んでいた。1年終る頃に、その子が先生のところに来て、「先生が嫌いやないんやで。幼稚園で一緒やった子がクラスに一人もいない。誰もいてなくて寂しかっただけなんや。」と言ってくれた。その先生は「ああそうなんか。」とほっとする。しかし、同時に気付いた。そんな小ちゃな小学校1年生の子どもの心模様を、自分は気付けなかった。その小ちゃな子に勇気付けられた。「先生、気にせんでええで。僕は寂しかっただけなんや。先生につろう当たってゴメンな。」と言って励まされた。「あー、てこずっている子どもの心の中も、そういうことやったんか。自分に反抗的であったんではないんや。何かこのクラスにいずらいということを先生にわかってほしかったんや。」ということに気付いた。教師は、子どもから1つ学んで歳をとる。10人の子どもから学ぶと10年選手になる。みなさん方も、教育実習に行ったときに、何人の子からいくつのことを学べるでしょうか。その学んだ記録、数だけ、みなさんは教師に近づいていく。
「出会いはいつもカルチャーショック」というのがレジメにありますね。子どもと出会ったとき、ほとんどカルチャーショックになると思ってもらっていいと思います。自分の経験した範疇で子どものことがすべてわかると思うと、これは大間違い。なぜなら、子どもが10歳になったとして、それまでにみなさんの20年、30年の経験とまったく違う10年の経験がある。平田オリザという大阪大学にいらっしゃる劇作家は、「対話するということは、自分の考えどおりに相手が考えるという錯覚をぬぐいさることです。対話というのは、意見の違う者どうしが意見交換して一致点を探ることなんです。」 とおっしゃっている。どうしても、日本的なモノの考え方でいうと、あうんの呼吸というのがあって、あの人と私は何をいわなくても心が通じ合っているはずだ、と考える。これは錯覚である。私とみなさんとは全く違う人生を歩んで来た。違う言葉、違う考えで当然である。私と今、意見を戦わすとしたら、違う意見どうしを尊重して、尊敬しながら、しかし、自分はこう思うんだということを粘り強く交換できるかどうかというのが対話力である。平田オリザさんは、 別なところで「日本には対話がない。」という本を書いている。対話というのは、違う意見の者どうしが、相手の意見と相手の立場をリスペクトして、その上で、なおかつ、違いを越えて1つの共通点を見出す、協同する結節点を見出すのが対話である。対話とか交渉というのは。非常に精神力と時間とがかかるものである。子どもとのやりとりも、実は対話なんです。先生が一方的にモノをしゃべって、あーしなさい、こうしなさいといった、それに慣れてきた人間からすると、それは、子どもの気持ちがなかなかキャッチできない。上下関係がありますから、子どもは黙ってしまいます。みなさん方が学ぶときにそうであったように、「ここはじっと耐えておこうか。」落語にあるように、「へたな浄瑠璃聞かされるんやったら、頭下げとこか。」ということで、ここを通り過ぎるのを待っている。「いうことを聞く従順な子どもやなあ」と見えていても、実は、心の中ではそうでない場合もたくさんある。その表情にあぐらをかいて、教師が生徒掌握力があるとたかをくくっていると、ある日突然、見えないものが押し寄せて、その学級の平穏は破られてしまう。プライドが引き裂かれることに耐えなさい。勿論、暴言、暴力を伴うような子どもの態度は、厳しく叱責しなければなりません。でも、中には、教師の人格を否定するような、プライドを切り裂くような言動をして平気な子もいます。それで、しゅっとなってしまっていると、次の行動に移れなくなります。教師は、タフでないとやれない。タフだということは無視するということではない。そういうプライドを切り裂くような言動をするには理由がある。理由があるからやっていいというわけではない。その言動をしている子どもの裏にある、見えないものをキャッチしなければならない。本当は、子どもは先生と仲良くしたい、先生に認められたい、でもそういう態度がとれない。生い立ちのせいかもわからない。その時の気分のせいかもわからない。昨日の家であった出来事とのせいかもわからない。あるいはもこれからの将来に悩んでいるからかもしれない。でも、本当は先生の気をひきたいのに、先生と仲良くやりたいのに、先生に認めてもらいたいのに、先生にやさしく声をかけてほしいのに、でもその裏腹なことをやってしまう。やって、先生に嫌われてしまったなあと思って、またへこむ。今度、またその反動で、もっと悪く出てしまうというような子どもも、たまにはいる。だから、子どもが自分のプライドを切り裂くような言動をしたからといって、一々へこんではいられない。かといって、その子を無視してはいけない。ちゃんと受け止めていただきたい。
レジメ3の「先生との出会いが子どもを変える」ということを、是非、知ってほしい。子どもは揺れます。安定した船、つまり安定した人間関係、家庭環境にいる子どもは、揺れが小さい。でも、家の状況だとか友達どうしの人間関係があまりしっくりいっていなくて自分の居場所の少ない子の乗っている船は、どんぶりどんぶり揺れまわっています。その揺れをドーンと受け止めて、先生の胸の内で、その揺れが少なくなってくる。先生と話をしていると、この揺れが少なくなってくる、収まってくる、というような子どもとの関係になってほしいと思う。
小学校1年生の話。女の子がおもらしした。みなさんは、何と声をかけられますか。何とクラスに言いますか。その先生は、「〇〇さんはお茶をこぼしちゃったね。だから、保健室に行ってなおしてこようね。」と言ってその場をつくろった。でもそれで終らなかったのが、その先生のすばらしいところです。その先生は、その女の子に手紙を送った。「ゴメンな、あの時は。試験に入る前に聞けばよかったネ。今から少し時間がかかるから、トイレに行きたい人はいませんか、と。そのために、〇〇ちゃんにつらい思いをさせたネ、ゴメンネ。」この手紙を書いて、わざわざ、家に届けた。それによって、「失敗した、先生に怒られるかもしれん、お母ちゃんにボロカス言われるかもしれん。恥ずかしい。友達に顔を合わせることができなくて、明日から学校行かんわ。」と自分を責めていた子どもの心を推し量って、こどもの心が手に取るようにわかった。だから、「そういう風に思わんでいいよ」という助け舟を手紙に託した。それによって、どれだけ救われたか。このように、心を癒してもらえる先生と出会えたのはすばらしいと思う。
ある支援学校の先生の話。キーちゃんという女の子は、手足が不自由です。いつもうつむきがちな、どちらかというと暗い感じのする子どもでした。その子が、ある時、担任のY先生に「お姉ちゃん、結婚するねん。」 と顔を輝かして言った。ところが、1週間もたたないうちに、その子は泣きべそをかきながら先生のところに来た。「先生、結婚式、出られへんようになってん。」「何でや。』「お母ちゃんがあかんいうねん。」きっと、お母さんは、結婚する相手のご家庭に気を遣って、「障がいのある子の家族の人と結婚したら、障がいのある子が生まれんちゃうか。」という社会的偏見、差別的な意識を考えて、「姉が気を遣わないだろうか。」というおもんばかりで、キーちゃんに出席を控えるように仕向けたんだとY先生は考えた。そして、「そうか、残念だなー。でも、でられへんかっても、キーちゃんが、お姉さんを祝う気持ちは変われへんネ。だから、先生と一緒にプレゼントを作ろう。」と言って、浴衣を作り始めたんです。反物を買ってきて、二人で縫って結婚なするお姉ちゃんにプレゼントする、ということになりました。でも、後日談があります。そのお姉ちゃんが、先生とキーちゃんに「結婚式に出て。」と言いに来た。嬉しかったでしょうネ、キーちゃんは。先生も嬉しかったと思うんです。そして、結婚式に出ました。お色直しのとき、お姉ちゃんは、キーちやんがプレゼントした浴衣で登場した。そして、最後の感謝の言葉を述べました。それまで、何もできない子という思いでキーちゃんを見ていたそうです。でも、そうじゃないとわかったとき、キーちゃんはキーちゃんとして生まれて、キーちゃんとして生きてきた。これからもキーちゃんとして生きていくにの、もし、ここで隠すようなことがあったら、キーちゃんの人生はどんなに寂しいものになるだろう。この子はこの子のでいいんだ。お姉ちゃんは、「この子は私の誇りです。」と言って、話を締めくくった。お姉ちゃんはすばらしいなあと思います。そのお姉ちゃんの言葉で、キーちゃんは、きっとすばらしい人生を歩めるんだと思いました。 ?中略?
最後に、レジメ4「教育は未来の建設に携わる崇高な営み」。「教育とはともに希望を語ること」なんだ。いろんなしんどい状況にある子ども達と一緒に、キーちゃんと一緒に、希望を語ることなんだ。絶望を知らせることではない。希望を持って、明日に生きていく。その力を与えるのが教育の力なんです。我々の大先輩、大村はま先生が『教えるということ』という本を書かれているんですが、その中で、このように書かれている。
先に生まれて私が先生になりましたか、子どものほうが私より劣っているなんていうことはないんです。劣ってなんかいないで、年齢が小さいだけなんです。(略)実にすぐれたものやいい気持ちを持っていまして、とても自分の相手ではないんです。(略)子どもはほとんど全部教師よりずっとすぐれていると思って間違いなしです。そういう敬意といいますか、尊敬を心から持って、この宝物をたいせつにしたいと思います。歳が小さくて子どもっぽいのに気がゆるんで、ことばが乱れたり、態度がみだれたりすることはこわいことだと思います。
「この子は自分なんかの及ばない、自分を遠く乗り越えて日本の建設をする人なんだ。」ということを授業の中で見つけて、幼いことを教えながらも、そこにひらめいてくるその子の力を信頼して、子どもを大事にしていきたいと思います。
だから、暴力・体罰なんていうのは、もう大村はま先生から考えると、とてもじゃないけれど、相手の子どもを尊敬しているものではない、見下げている、動物以下のように思っている、ことなんですよ。小ちゃな子どもを見かけではなくて、明日の可能性に尊敬を払って接しておれば、自然と子どもの心に通じていくと思う。
もう一人、林竹二先生も『教えるということ』という本を出しておられます。
教育は子どもを変える仕事といってよいと思いますが、この変える仕事は、教えるものがまず自分を変えることによってしか成し遂げられないのです。
教えようとするものは、その相手からまず教えられること、まず学ぶことが必要だということです。子どもから学ぶことができるものだけが、子どもを教えることができるのです。
教えようとするものは、その相手からまず教えられること、まず学ぶことが必要だとということです。子どもから学ぶことができるものだけが、子どもを教えることができるのです。
今。教育学の方では、学び続ける教師というのが目標になっています。教えるためには学び続けないと教えられない。子ども、保護者、町の人々に対して敬意を払って何を学ぼうとするのか、何を教えてもらえるのか、という謙虚な気持ちで学び続けることによって、教師は成長し続けることができる。省察的教師といいます。自分に謙虚であり続けることができる教師が、初めて子どもに教えることができるんだ、ということを、二人の先生は教えておられる。
最後に、もう一度、是非、みなさん方に言いたい。これから教師になってクラスを持つ。いろんな子どもと出会いがある。出会った時はカルチャーショックを受けて、プライドを切り裂かれるかもしれない。でもそんなプライドは捨ててください。自分自身が謙虚に学び続ける。見えているものではなくて、見えないものから本質を見て取る。その姿勢を持ち続けることによって、きっと先生方は、子どもとつながって成長される。いい先生になれるんだなあと思います。期待申し上げております。これから、1年間頑張ってください。今日は、どうもありがとうございました

(写真)セミナー風景
(写真)セミナー風景

 この後、塾生・聴講生から次々に質問があり、成山先生に丁寧に答えていただきました。

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塾生・聴講生の感想
  • 船の話が印象的でした。子どもは人間関係や家庭のほんの小さな出来事でも揺れるのだと思います。その子どもを教師が受け止める、揺れに気付くだけでどれだけ子どもの揺れが静かになるのだろうと思います。そのためには、成山先生がおっしゃっていた「見えないものを見る。」という事が大切になってくると考えました。
  • 今日のお話を聞いて、自分が教育実習にいったときのことを、改めて思い出すことができ、たくさんのカルチャーショックがあり、その中からいろんなことを学んだことが思い出されました。これからもたくさん学んで成長していきたいです。
  • 私は成山先生の「見えているものを追いかけない、見えないものをみつけることが大切」という言葉が一番印象に残っています。その理由の1つが、実習のとき、どうしても心を開いてくれない男の子がおり、最後までその子のことが分からなかった思い出があるからです。私はきっとその子の行動や表情しか見ることができなくて、その子の素顔が引き出せなかったのだと思います。
  • 成山先生のお話を聞いて、よく言われる「子どもに寄り添える教師」という意味が分かり、とても心に響きました。子どもたち一人ひとりの個性を尊重して大切に関わるためには、子どもを見た目の姿で判断しないこと、教師の思い通りに子どもは存在しないことを分かっておくこと、子どもたちに疑問を持ち続けて解決策を考えていくこと、がポイントになると勉強になりました。

 多忙な中、時間を割いて貴重なご講演をいただいた成山治彦先生に、心より感謝申し上げます。
 ふくまる教志塾では、聴講生については途中参加も可能です。興味のある方は、教育政策課にお問い合わせください。

この記事に関するお問い合わせ先

池田市 教育委員会 教育部 教育政策課
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