黄檗山萬福寺開創

更新日:2021年02月01日

ページID : 3268

黄檗山萬福寺開創

 隠元は、はじめ長崎の寺院に3年滞在して帰国する予定であったとされている。しかし、隠元の意図とはべつに、我国の一部の禅僧の間にはかれを京郡妙心寺に迎えようとする動きが起こった。長崎興福寺にあった隠元を臨済宗の高僧龍溪らが妙心寺に招聘すべく行動を開始した。
 しかし、この企ては、妙心寺内部に反対が起こったことにより頓挫し、やむを得ず、龍溪が住持をつとめる摂津富田の普門寺へ隠元一行を迎えることになった。普門寺にあった当初かれは、暮府の命でなんらの自由も与えられず、一般僧侶の参見も許されないという厳しい状況下におかれていた。ところが、隠元到来の報に接した多くのひとぴとがかれを拝しようとする動きを止めることができず、普門寺に日本人僧の200人までが集まることを許すなど、幕府はじょじょにその規制を緩和せざるをえなくなっていった。さらに、龍溪らは、老中酒井忠勝・松平信網らといった幕閣はもとより、後水尾天皇などの間を奔走し、隠元の日本滞留を画した。すでに述べたように、この過程で多くのものが隠元との関係を深めていくことになる。万治元年(1658)かれらの願いは成就し、隠元は龍溪とともに将軍家網に拝謁が許されるにおよんだのである。
 隠元の日本滞留は3年の予定であったため、中国から帰国を促されながら龍溪らの懸命の慰留に、万治2年ついにこの地に留まり一寺を開創することを決したのである。同3年、幕府より宇治大和田の地が与えられ黄檗山萬福寺と称し、寛文3年(1663)隠元は祝国開堂にいたった。隠元来日より数えて7年目のことである。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ34-35より転載) 

この記事に関するお問い合わせ先

池田市 教育委員会 教育部 生涯学習推進室 歴史民俗資料館
〒563-0029
池田市五月丘1丁目10番12号
電話:072-751-3019
教育委員会教育部生涯学習推進室歴史民俗資料館へのご意見・お問い合わせ