青木重兼と隠元

更新日:2021年02月01日

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青木重兼と隠元 

 重兼は隠元滞留の活動に際して、龍溪ともども重要な役割を担っている。まず、重兼は明暦2年(1656)摂津普門寺にあった隠元に帰依し、将軍拝謁を強く推し進めるとともに、つづいて、すでに触れたように、仏日禅寺の建立へと進む。かれの存在によるものなのか、仏日禅寺の住持は慧林など、黄檗宗の高僧が担っている。さらに、万治4年には、隠元より「二木」の道号を与えられるまでになっている。
 重兼の活動はさらにつづく。寛文5年には、将軍家綱より銀2万両とチーク材が寄進されるにおよび、現在重要文化財に指定されている萬福寺大雄宝殿の造営奉行を任じられ、このとき黄檗山内に不二庵を建立し、留雲亭を構えみずからもここに住した。ついで、同10年には江戸白金に紫雲山瑞聖寺の建立にあたることになる。また、仏日禅寺以外に現三田市末吉にあらたに大覚山方広寺を建立し、隠元の後を継いだ木庵を開山第1代に乞い、自身はここに第2代住待としてはいった。
 このような重兼の精力的な活動は、黄檗宗の日本での確立、形成期にあってなくてはならないものであった。当然のこととして、かれには隠元・木庵・即非をはじめ、萬福寺第3代目となった慧林(元仏日禅寺住持)、龍溪、さらには、隠元と親密であった後水尾天皇や有力幕閣との深い関係が生まれていたとしても不思議なことではない。また、本文庫に収められている白衣観音像以下の絵画の存在は、林丘寺光子内親王の手になるとされるものである。彼女は、後水尾天皇皇女である。黄檗宗を介したかれの人脈がどのようなひろがりをみせたかを窺い知る資料として注目される。
 しかし、かれはさきにみた何十万石というような有力大名でもなく、むろん強い権能をもつ幕閣でもない。わずか一万石の外様大名でしかなかった。重兼自身の黄檗宗への深い帰依がなさせた業であったのであろうか。仏日禅寺への寺領200石、さらに方広寺へ30石の寄進すら、わずか1万石の所帯にはあまりにも大きな負担であったように思える。すでに述べたように、麻田藩はこのことによってなのであろうか、他に比べ早い段階で藩財政の逼迫に喘ぐことになった。

嫡子不在であった麻田藩

 ところで、重兼には嫡子がなかった。しかし、かれは寛文12年(1672)麻田藩第3代目として重正の襲封をはたした。
 では、重正はどのような人物であったのだろうか。かれは当時の幕府老中酒井忠勝の外孫、板倉宜親の次男で忠勝のもとで養われていた人物である。すでに述べてきたように、酒井は隠元の日本滞留、さらに萬福寺開創に幕閣として重要な決定を下した人物である。当然、重兼とは黄檗宗を介Lて何らかの関係が成立していたことは想像にかたくない。1万石の外様大名である麻田藩にとって、嫡子の存否は藩存続の重大事である。この間の事情をどのように解すべきであろうか。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ35より転載)

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