隠元来日と黄檗文化伝来

更新日:2021年02月01日

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隠元来日と黄檗文化伝来

 江戸時代前期、承応3年(1654)長崎興福寺の住持逸然性融の再三の求めに応じて、中国黄檗山萬福寺の高僧隠元隆■(王へんに奇)が弟子、諸職の職人を伴い来日をはたした。隠元63歳、7月のことである。また、奇しくも本年平成4年2月は隠元生誕400年を迎える。
 当時の日本は、徳用幕府による鎖国が確立し、一方、幕藩体制の厳しい統制は皇室はもとよりあらゆる社会に浸透しつつあった。仏教界もその例外ではなく、元和元年(1615)に完成した各宗ごとの寺院法度によって寺院の本末関係が定められ、本寺と末寺の間に多くの階級が設けられるなど、この世界にもきびしい階級観念が導入された。さらに、キリスト教禁制のため宗門改めが設けられ、寺院が幕府の出先機関のような状況にあった。このような厳しい統制は、布教活動をはじめ、宗教がもつ本来多くの自由までもが制約の対象となり、衰徴沈滞、生気を喪失しつつあったときでもある。
 ここに、隠元は黄檗宗とともに絵画・彫刻にはじまり、建築様式までも含めた中国明代の最新の文化をもたらした。旧来の文化の呪縛にさいなまれていた新しい世代にとって、それはまさに衝撃ともいうべきものであった。
 このような状況にあったためか、当時の有力大名・幕閣・公家たちが先を争って隠元との接触を求め、新しい文化の摂取を図ったこともごく自然のことであったといえる。それはあたかも、当時の一種の文化的ステイタスといってよいかもしれない。隠元のもとへは、たとえぱ、加賀前田網紀・仙台伊達綱宗・肥後細川綱利といった有力大名、とくに九州地方の大名の名が多く認められ、幕閣では老中酒井忠勝・同松平定信・京郡所司代板倉重宗など、公家では近衛基煕・烏丸資慶、さらには後水尾天皇をはじめとする皇族も深い交渉をもったことが知られている。黄檗文化をもたらした隠元がいかに大きな影響を与えたかを想像することができる。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ32-34より転載)

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