桃田伊信 解説

更新日:2021年02月01日

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狩野派画家 桃田伊信

 伊信の没年は、明和2年(1765)であるといわれている。かれは狩野派の画家である。宝暦・明和以前における京都、大坂の大勢は狩野派の全盛期であり、池田にあったかれがその系統の流れにのったことも当然の帰着といえる。ここで、狩野派画家としての伊信の芸術性を云々することが間題ではなく、むしろ、かれの存在こそ池田にとって重要である。かれの存在を明らかにしたのは、やはり稲束猛の業績に負うところが大きい。
 美術史的視点からいえぱ、かれの代表作とされる呉服神社拝殿両脇の杉戸絵や法園寺観音堂の天井画、また、弊館蔵の松林図屏風をみても、画題・構図・用筆とすべて狩野派在来の法に従い、その中には何らの独創性を見いだすことができないとされる。しかし、一面やはり技巧の抜群なることをみてとることができる。猛の言を引けぱ、「彼がいたずらに不自然なる自己の表現に努めもせず、他の狩野派の画家と同様に、謹んで師法を守り、何の煩悶もなく没我的な態度を取っている所、画に一種の落ち着きと気品とを与えている。」のである。
 ところで、かれが狩野派に属する画家であることは知られても、では、いつ、いったいだれについて学んだかである。かれの晩年にあたるが、宝暦2年の作品に残された落款には、呉江法橋とあり、また進んで没年にあたる明和2年にいたって法眼伊信と記している。そのことから、技量については世間から一定の評価を受けていたとみることができる。しかし、その前半生についてはまったくといってよいほど資料が残されていない。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ27-28より転載)

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