山川正宣と広瀬旭荘

更新日:2021年02月01日

ページID : 3337

山川正宣『寧楽西京薬師寺仏足跡和歌(仏足石和歌集解)』文政9

(写真)寧楽西京薬師寺仏足跡和歌

(C)池田市教育委員会(池田市立歴史民俗資料館) 
(『蝸牛廬文庫目録(2)』より) 

山川正宣と広瀬旭荘

 衰徴の途をたどる池田文学にあって、当時最大の酒造家西大和屋の当主山川正宣(1790~1863)が池田学派最後の文人として頭角を現した。かれは京郡上賀茂の神官賀茂季鷹に師事し、和歌・国学を修め、大和薬師寺にある仏足石の碑文に関する論攷『仏足石和歌集解』や神武天皇から平城天皇にいたる御陵に関する『山陵考略』などを著した国学者である。とくに、文久3年(1863)のちに述べる旭荘が正宣のもとを誘れた際には、おおいに攘夷論を語ったといわれている。
 旭荘(1807~1863)は、豊後日田の学塾咸宜園を経営した広瀬淡窓の末弟で、一時江戸にも出たが、大坂を中心に活躍した儒学者である。
 かれは、文久3年、大坂城の御城入儒者として招かれたが、安政大獄以降幕府による多くの儒学者の処刑や討幕の機運が高まりつつあることを察し、これを辞退し、健康を害していたこともあり、池田の門人の勧めに応じ、居を池田宮の下(現池田市綾羽)に移した。しかし、かれの病状はすでに重く、池田ではあらたに門人を育てることもかなわず、正宣との面談をもっただけで、わずか75日でこの地に没した。池田の門人として林田良平(林叟)・託明寺の住職釋了現、西本町の医師高橋由佶らをあげることができる。むろん大坂の旭荘のもとにあつた門人数の比ではない。しかも、池田と大坂との関係は、李谿らの時代のような対等な地位を望むことはすでに不可能であった。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ25-26より転載) 

この記事に関するお問い合わせ先

池田市 教育委員会 教育部 生涯学習推進室 歴史民俗資料館
〒563-0029
池田市五月丘1丁目10番12号
電話:072-751-3019
教育委員会教育部生涯学習推進室歴史民俗資料館へのご意見・お問い合わせ