禅悟爐文庫 和歌・俳句短冊

更新日:2021年02月01日

ページID : 3202

凡例

 短冊関係資料目録の記載は、(1)整理番号(2)作者(3)作品(4)資料番号の順に従った。前書などの記述については、カッコ内に示した通りである。
 作品の配列は、作者名を50音別に、さらに同一作者の作品についても50音別によった。作品は記述のままとし、旧漢字のみ新漢字とした。作者名は変換していない。
 資料番号の枝番号は、本資料の旧状によるもので、束になっていたものの上方から番号を付した。
 作者名には、本名の他にさまざまな表現があり、元作品通り目録とした。判明している異称は、次の通りである。
周平=充平=伴林光平 瓜牛=良平

目次

  1. 和歌
  2. 俳句
  3. 漢詩
  4. 絵短冊
  5. その他

短冊について  大阪大学医療技術短期大学部講師 富田志津子 (『禅悟爐文庫目録』(平成4年3月31日発行)ページ41-42より転載) 

 禅悟爐文庫には、130余の和歌・俳句等の短冊及び懐紙が収められている。それらは、江戸時代から現代に至るまでのものである。
 有名人の短冊も少なくない。古いものでは、江戸時代初期の連歌師 里村玄仲(俳句9)、大名の細川肥後守光尚(その他2)のものがある。江戸時代中・後期は、和歌では、頼春水(和歌4)・伴林光平(和歌26・27・31)・香川景樹(和歌13)・蓮月尼(和歌79〉等、俳譜では、芭蕉(俳句32)・丈草(俳句16)・士朗(俳句15)・芹舎(俳句6)・鴬宿(俳句3〉らのものが見られる。近代の童話作家巌谷小波の俳句短冊(俳句14)もある。主なものについて、以下で略述する。
 江戸時代から池田は俳諧の盛んな地であった。元緑の頃稲丸が活躍し、中興期に呉春が移り住み、幕末には呉老もこの地に来て俳諧を広めた。そうした環境のもとに、俳諧は池田の文人たちによって長く嗜まれてきたのである。禅悟爐文庫には、前述の古俳人の他に伊丹の鬼貫(俳句7)・蟻道(俳句8)や、当地の呉老(俳句11)等、北摂で活躍した人の短冊も収められている。
 近・現代になっても池田では俳句が盛んであった。岸上家の善五郎又吉(俳句20)も、地元の俳壇で活動していたらしい。明治43年から池田町長を務めた林田安平(俳句14)、その息で郷土史家の良平(俳句5)や、南豊島村長の山田彩雲(俳句12)らの短冊があり、その多くは慶弔の句である。これらから当地の俳人たちの交流を窺うことができる。そうした池田の俳壇は、大正の頃、正岡子規の門人であった三好風人(俳句33・34)が池田に定住し、この地に多くの俳人を育てた功績が大きい。風人は、昭和3年、44才で、池田の唐船ケ淵に身を投じた。彼の短冊は、当文庫に3点収められている。
 近代の池田では俳句活動が盛んに行われた。「仲文馬場馬寅師の100回忌追善の会にて」「牡丹花翁400年丙寅元旦吟」といった前書を持つ短冊がある。前者は、昭和4年に岸上善五郎又吉(俳句20)の詠んだ俳句、後者は三好風人(俳句34)の詠である。馬寅は呉春の門人、牡丹花翁は室町時代の連歌師で、池田に住んだ肖柏である。こうした古人の追善句会が、地元の俳人たちによってしばしば行われていたのである。
 当文庫には、和歌の短冊も多く遺されている。江戸時代の歌人平間長雅の墓が久安寺にあり、彼が晩年に池田に移り住んでいたことがわかる。長雅の門人有賀長伯には、伊丹の鬼貫が俳諧歌の伝授を受け、その後有賀家は北摂に門人を有していた。岸上家も有賀家と結びつきがあったらしい。長伯の孫の長収(和歌62)が岸上家に宿泊した折の短冊と、その子長基(和歌61)が、同家の息の元服を祝した短冊がある。おそらく、有賀家に和歌の指導を乞うていたのであろう。又、香川景樹(和歌13)とその養父景柄(和歌14)の短冊もあり、桂園派の影響を受けたことも推察される。頼山陽の父、惟寛(春水)の「庭の面に柳桜のあるやどはまねかずとても人やとふらん」の短冊(和歌4)は、惟寛も当家に宿泊したことを示すのであろう。息の山陽が、酒に魅かれてよく伊丹を訪れたのは有名である。惟寛は池田の酒に魅かれていたのかもしれない。
 又、幕末の歌人中村良顕(和歌74・75)や、良顕の父良臣に歌を学んだ伴林光平など、伊丹に住んだ歌人の短冊も見られる。岩田秋平(和歌28・29・30)は良顕の門人で加茂の豪農である。他には、幕末の外国奉行川路聖謨〈和歌45)とその妻高子(和歌19)や、江戸末期の真宗の学僧大含(雲華上人)(和歌51)、西宮社司吉井良運(和歌72)の和歌短冊もある。
 近代の池田歌壇は活動が盛んであった。明治の中頃、皆川庸匡(恭之助)(和歌71)が池田小学校で教鞭を執る傍ら、伊古太学館という家塾を開いて和歌を教えていた。岸上善五郎又吉も、50名を超える門人の一人であった。大正になって、御歌所寄人加東義清指導による摘草会が結成され、大正15年、同会の良久子の歌が宮中御歌所で御前披露されている。昭和17年には、御歌所寄人金子元臣が主宰する歌誌『あけぽの』の大阪あかね会の大会が五月山大広寺で催された。その折に林田良平らが元臣に入門している。禅悟爐文庫所収の短冊は、歌道御用掛・文学御用掛であった渡忠秋(和歌60)と、 その後、御歌所長を務めた高崎正風(和歌41)、京都高樹院住職蓮茵(和歌78)、又吉と接触のあった香川県白鳥神社の宮司猪熊伸男(和歌37-40)などである。又、俳句と同じく、山田彩雲(和歌20-23)や林田良平〈和歌76・77)らの慶弔の和歌の短冊もみられる。
 漢詩の短冊は2点。懐徳堂の教授並河寒泉〈漢詩1)のは、池田からも懐徳堂に学ぷ者がいた縁か。もう一点は呉林翠(林田安平)(漢詩2)のものである。
 画家の絵短冊も数点ある。竹内栖鳳の門人樫野南陽のが1点(絵短冊5)。南陽は淡路島の人で、昭和2年に池田の綾羽に居を移して来た。小林一三らが中心になって「南一会」という後援会ができたという。岸上家も南陽を支えていたらしい。同家には南陽の作品がいくつか遺っていたがそれらも当資料館に寄贈された。又、日本画家の小川千甕(絵短冊3)や菅楯彦(俳句21)、俳画で有名な俳人芦田秋双(俳句13)の絵短冊もある。どの人も南陽と同時代であり、南陽に関わりがあったものと思われる。その他に、古いものでは岸駒の門人川村文鳳(俳句35)のものも見られる。
 禅悟爐文庫の短冊のうち、主なものについて述べただけでも、以上のようなことになる。それらの多くは、同文庫に入った経緯が不明である。しかし、池田という地と、岸上家の歴史を語るものが少なくない。研究をすすめれば池田の文化や同家の歴史をさらに様々な角度から知ることができるであろう。禅悟爐文庫の資料は、池田で栄えた文化や、当地の文人達の交流が窺える貴重な資料であるといえる。

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