禅悟爐文庫 書画軸類

更新日:2021年02月01日

ページID : 3203

凡例

 書画軸類資料目録の記載は、(1)整理番号(2)作者名(3)資料名(4)形状(5)方量(縦×横 単位はセンチメートル)(6)資料番号の順に従った。分類項目は、絵画・書跡である。序列は、作者の生存年代に従った。

目次

  1. 絵画
  2. 書跡

書画軸類について 池田市立歴史民俗資料館 田中晋作
(『禅悟爐文庫目録』(平成4年3月31日発行)ページ52-53より転載) 

 禅悟爐文庫資料に含まれる書画軸類は扁額類を含め62点である。これらの資料はその内容から大きく4つに分類することができる。1、黄檗宗関係資料 2、和歌・俳諧関係資料 3、絵画関係資料 4、漢詩文関係資料である。

  1. 黄檗宗関係資料(1~4・41~49)
     本資料は、麻田青木藩二代目藩主青木重兼(瑞峰)の存在によってもたらされたと推定されるもので、当文庫中、群としてもっとも形の整ったものである。また、資料の内容から、その制作は江戸時代前期に限定されるものである。一方、本文庫の形成は江戸時代後期以降にあることから、もとは別個に存在したものが本文庫形成過程であらたにもたらされたものと推定される。ここにみられる黄檗宗関係資料は、「二木」道号にみられるように、青木重兼の所持した中心資料を含むものであったと考えられる。これらの資料が本文庫に入った時期を特定することは困難であるが、中川すがね氏が指摘するように岸上家と麻田藩との強い結び付きに起困することは想像に難くない。(「大根屋改革について」ヒストリア133、1991)
     また、隠元をはじめとする黄檗宗関係者と青木重兼との関連は、当時の外来文化への憧憬という一般的な理解ではなく、すでに述べたように麻田藩存続にかかわる政治的な動向も加味されていた可能性も考えられる。(拙稿「禅悟爐文庫資料について」『阡陵』1992)
  2. 和歌・俳諧関係資料(14~19・20~23・54・57~60)
     本資料の中心は、石田敬起・河東碧梧桐・三好風人である。
     石田敬起は、池田東市場岸上家の出で、天満大根屋に入り、後に西本願寺をはじめ尼崎藩などの財政改革に辣腕を振った人物である。詳しくは中川すがね氏の研究を参照されたい。
     風人は松山出身で、青木月斗の門下にあり、大正7年池田に居を移している。碧梧桐との接触が本資料から窺われる。一方、碧梧桐と岸上家との関係は、碧梧桐の『蕪村』(1930 平凡社)に収録された史料の中に同家所蔵のものが含まれていることから裏付けることができる。
     ところで、明治から大正にかけて、池田には稲束芝馬太郎・猛親子があり、同家は呉春・蕪村をはじめ、質・量ともに関西屈指の蔵幅家として知られていた。また、猛は夭折したとはいえその方面の研究家として知られている。大正から昭和初期にかけて碧梧桐は蕉村の資料を求め全国を渉猟している。ここに両君を結付ける糸があったと考えられる。
  3. 絵画関係資料(5~13・23~40)
     本資料は、江戸時代に活躍した池田の葛野宜春斎(1771~1819)・馬寅(~1830)に関するものと、山田彩雲、大正時代に池田室町に一時居を構えた須磨対水(1868~1955)、昭和2年から逝去した同30年までを池田で活躍した樫野南陽(1887-1956)に関するものである。
     葛野宜春斎は、池田の酒造家山城屋に生まれ、父含春斎とともに西宮の狩野派の画家勝部如春斉に師事。のち一時池田にあった呉春につき、さらに、応挙の影響を受けた画家である。一方、池田呉服神社の神官であった馬場馬寅は、やはり、天明年間に呉春に師事し、宜春斉とともに江戸時代後期の池田を代表する画家である。
     山田彩雲は池田の人で、豊能郡吏、後に南豊島村(現豊中市)の村長を勤めている。彩雲の作品に賛をのこしている吉田北山(鋭雄)は、(1879~1948)懐徳堂記念会に籍をおいた漢学者で、池田北のロに居を構え、池田文化の顕彰に尽力した人物である。
     須磨対水・樫野南陽は、ともに池田に居を移した理由のひとつに呉春の存在があるといわれている。対水は近代大阪画壇を代表する日本画家のひとりで、茶道関係者をはじめ当時の大阪を代表する文化人との交流が知られている。また、無類の美食家としても有名である。一方南陽は、淡路島に生まれ、弱冠20歳にして第1回文部省美術展覧会に上村松園らとともに3等賞入賞を果たしたが、のちに中央画壇を離れ、池田に居を移した人物である。
  4. 漢詩文関係資料(50~54・56)
     本資料は、田中桐江(1668)・荒木李谿(1736~1807)を中心とする。
     桐江は、出羽庄内に生まれ、山鹿藤助のもとで兵学・武術を習得、さらに朱子学を学び、柳沢吉保に仕え、のち、享保9年(1724)池田に居を移した。池田では「呉江社」を興し、朱子学・漢詩を講じ、ここに集うもの、大坂・京都のものも含め114名の多きを数えたという。一方、李谿は、池田の酒造家「鍵屋」に生まれ、伯父富永仲基に従い懐徳堂に入門、中井竹山・履軒に師事している。桐江門下にあった父蘭皐、また弟梅閭とともに池田の学問を支えた人物である。
     また、広瀬旭荘(1807~1863)は大坂の儒学者で、池田にはかれの門にあったものがあり、その関係もあって、文久3年池田に居を移すが、わずか75日で当地で没した。

 以上、書画軸類について概述したが、これらの資料はなんらかの形で岸上家との関連が抽出できそうである。今後それぞれの来歴をさらに追跡することによって、池田文化の形成、また、その文化的特質の一端を明らかにすることができるものと期待される。この点からいっても、ここに示された資料は、まさにすぐれた地域文化遺産といえるものである。

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