呉春・宜春斎・馬寅

更新日:2021年02月01日

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松村月溪(呉春)と池田

 天明元年(1781)、池田は江戸時代後期の日本を代表する画家、松村月溪を迎える。この年、月溪は結婚わずか3年にして愛妻春を失い、さらに、父匡程が江戸で客死するという不幸にみまわれた。傷心の身を案じた師蕪村は、池田にあった門下長老の呉服商川田田福の池田の出店井筒屋(現 栄本町)への転居を勧めた。月溪30歳であった。
 明けて天明2年、月溪は、池田の古名「呉服里」によって姓を呉、名を春、呉春と改名、心機一転を図る。すでに触れたように、池田の文人たちはかれの到来によって絵画はもとより、俳諧なども大きな触発を受けた。

宜春斎と馬寅

 池田でかれに師事するものも現れたことはごく自然のなりゆきである。その代表的な人物は、すでに触れた葛野宜春斎と呉服神社の宮司馬場仲文(馬寅)であった。宜春斎は、如春斎亡き後、呉春に師事したとされるが、その期間は実際には極めて僅かなものであったと推定される。呉春が池田を離れ京郡へ向かったのが寛政元年5月であり、また、それ以前でも天明7・8年ころにはかなりの期間を京都で過ごすことになったという。このような状況からすると、如春斎との関係もあり、実際に宜春斎が呉春に師事したのは天明年間後半の一時期ということになりそうである。
 ところで、寛政以降呉春は応挙の画風の影響を強く受け、写実の度合いを増すようになる。すでに京都にあった呉春の影響であろうか、宜春斎の画風にも今回紹介している作品からその影響をみてとることができる。ただし、宜春斎は、池田にあった応挙の作品をとおしてその感化を受けたともいう。つまり、宜春斎は、呉春に師事し、なお、応挙の画風をも加味したところにかれの絵の本質を見いだすことになるのかもしれない。
 馬寅も呉春に師事した人物であるとされているが、かれは、宜春斎よりも5歳程度若年であったといわれ、呉春が池田を去った時期から勘案して、やはり、宜春斎と同様その期間はきわめて短かいのものであったと考えられる。ただし、馬寅は、宜春斎の場合と異なり、寛政以降もときどき京郡の呉春を訪ねその教えを受けたといわれている。そのことは、ともに呉春に師事したといってもふたりの間にはおのずと異なった画風をみることは当然の帰着である。とくに、馬寅の代表作のひとつとされる「蘭亭図」などにそのことが窺える。しかし、かれらふたりの存在は、呉春の去った池田においてはともに重きをなすものであった。ただ、文政3年(1820)宜春斎が没し、つづいて同13年には馬寅もなくなり、その後継者が生まれなかったことは残念なことといわざるをえない。
 酒造家であった宜春斎、呉服神社の宮司であった馬寅、かれらの画業はともにその専門に立つものではなかった。その後、池田北の口の豪農出身の上田耕夫が世に出たが、かれの活躍の場は池田ではなく大坂であった。経清的繁栄を誇った池田であったとはいえ、この地にはやはり画業をもってするには越えることができない限界が在在したのであろうか。多くの優れた作品を求めながらも、必ずしも、傑出した画家を生み出すまでにはいたらなかった。これが、江戸時代在郷町池田の絵画がもった特質であり、限界でもあったようである。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ29-30より転載)

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