田中桐江

更新日:2021年02月01日

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 田中桐江編『呉江水韻』

(写真)呉江水韻

桐江の下に集まった好学の士が、桐江を盟主に詩文結社「呉江社」を設立した。「呉江水韻」は、呉江社の門人によって歳首歳晩の詩作を毎年一冊づつ多年にわたり編まれた。  

(C)池田市教育委員会(池田市立歴史民俗資料館)
(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録より)

池田と田中桐江:池田学派の形成

 「池田学派」の形成は、享保9年(1724)仙台より池田に居を移した田中桐江の出現をもってはじまる。ときに桐江57歳であった。桐江は、寛文8年(1668)出羽庄内に生まれ、元禄12年(1699)禄200石、儒学をもって柳沢吉保に仕え、将軍綱吉に経書を講したこともある人物である。吉保のもとでは、荻生徂徠との篤い親交があったことが知られている。しかし、正徳3年(1713)吉保の姦臣を斬ったことにより江戸を出奔、仙台に身を隠した。
 桐江の池田招聘に重要な役割を果たしたのは、摂津芥川(現高槻市)光徳寺の僧獨麟である。両者は桐江が仙台に走る以前、すでに江戸で交わりがあり、獨麟は桐江に池田隠棲を勧め、自身が住持を兼ねていた池田木部の東明寺に招いたとされている。
 桐江の池田来往の報は、すぐに近在近郷に伝わり、かれのもとに獨麟・荒木適翁・平野端的斎・清地以立・清地以悦・稲津貞軒ら多くの好学の士が集まった。かれらは、桐江のもとで講説を聞き、また、漢詩文を賦し、さらに、桐江を盟主とする「呉江社」を設立した。呉江社の名は、呉は古来池田の地が「呉服の里」とよばれたことに、また、江は猪名川の清流に由来するものといわれている。かれらの作品は『呉江水韻』として残された。
 桐江が池田で亡くなる寛保2年(1742)までの19年間、「呉江社」の同人は114名の多きを数え、かれらは東は京都、南は大坂、西は尼崎と摂津一円に及んだという。桐江がもった影響力がいかに大きかったかを知ることができる。
  
(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ19-20) 

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