蕪村研究家としての碧梧桐

更新日:2021年02月01日

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河東碧梧桐は、正岡子規の門下で、子規の没後、新派俳句の代表格として高浜虚子とともに俳壇の双璧をなした。しかし、俳人という立場とは別に、彼の書家として、評論家として、また、蕪村研究家としての活動を見逃すことはできない。碧梧桐は、全国に散在する蕪村の関係資料を探し求めたが、蕪村の資料が多数存在した池田の地にも何度か訪れた。そのため、碧梧桐の作が多く池田には残されている。

河東碧梧桐筆「春妍秋芳」

(写真)春妍秋芳

(C)池田市教育委員会(池田市立歴史民俗資料館)
(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録より)

解説

蕪村研究家としての碧梧桐

 碧梧桐は子規門下にあって、新派俳句の代表格として虚子とともに注目されたのは弱冠二十代でのことである。子規没後、明治末年までかれは俳壇に新傾向時代を呼ぴ込み、さらに大正に入るや急進の自由律俳句へ、また、無季へと及んだ。晩年は、一方の雄虚子の俳壇での活躍もあり、かならずしも恵まれたものとはいえない。しかし、書家として、評論家として、また、池田にとっては蕪村研究家としてのかれを見逃すことはできない。
 ここでは本来の趣旨と離れることになるが、蕪村研究家としての碧梧桐に注目してみたい。むろん、その研究過程で何度も池田を訪れたことが知られており、関係なしとすべきものではない。碧梧桐が蕪村研究に手を染める発端は、まず、師子規が俳人蕪村に注目したことによる。かれは師のあとを受け、全国に所在する蕪村の関係資料の渉猟に乗り出すことになった。さらに、かれはすでに公表されている資料では飽き足らず、未知の資料を求めて膨大な精力を費やすことになった。大正末年から昭和初期にかけて多くの研究が公にされた。

碧梧桐と池田

 かれの研究業績の中で、池田に関するものとしてもっとも注目されるものは、昭和5年平凡社から出版された『俳人真蹟全集第七巻 蕪村』である。その凡例にまずかれが述べたことは、「出来得るだけ世に流布しない新たな発掘品を網羅して、この一巻を成就しようと心がけたのであるが、已むなく其の一二は既刊を踏襲した。」とし、未発表資料の発見になみなみならぬ決意をもっていた。
 この著書に収録された資料112点のうち38点が池田に所在したものである。全国的規模で収集された資料の内、3分の1にも及ぶ数量である。当然かれはこれらの資料の調査を目的に池田を訪れている。現在確認できるところでは、大正13年以降、小林一三が昭和9年に催した蕪村会まで数次におよんでいる。かれの目的とするところは、同じく蕪村に心酔していた小林一三の所蔵資料であり、また、関西屈指の蔵幅家稲束芝馬太郎の資料、さらに、池田在住所蔵家の資料であった。同時にかれは、その資料の調査とともに自身の作品を多くこの地に残している。

池田と蕪村

 一方、池田にはすでに蕪村に注目した人物がいた。芝馬太郎の子、猛である。かれは大正半ばから蕪村・呉春に関する論攷を公にしていた。しかし、残念なことにはかれはその大成をなすことなく昭和2年夭折した。享年39歳、研究者としてはあまりにも早い死であった。碧梧桐は猛の追悼集『稲束香山遺稿集』に収載された悼句巻頭に「二畳の間障子日当たるしはぶきをきく」の句をおくっている。
 むろんここで、蕪村の業績について述べるゆとりはない。視点はこの地に大正から昭和にかけて碧悟桐が足を運んだことにある。さらに、かれを池田に導いた蕪村の資料の存在である。重要な点は稲束猛がすでに別の観点からではあるが、蕪村研究に着手していたことである。呉春とともに少なくとも、当時の池田がもった文化はすでに蕪村をその中に取り込んでいたということである。また、碧梧桐がこの地を何度となく訪れたことは、月斗らの影響も含め、その後の池田の俳句の動向に大きな動きをもたらす遠因となりえたものと考える。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ13-15より転載) 
 

(写真)河東碧梧桐句 散る頃の梅葱畑に立つ風の吹きそふ

写真は、河東碧梧桐句「散る頃の梅葱畑に立つ風の吹きそふ」

((C)池田市教育委員会(池田市立歴史民俗資料館)。平成4年特別展『池田文化と大坂』図録より)

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