荒木蘭皐と富永仲基

更新日:2021年02月01日

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荒木蘭皐と富永仲基:池田学派の形成

 蘭皐と仲基は桐江門下にあって、池田文化を隆盛に導いた人物である。蘭皐は、享保9年(1724)大坂尼崎町1丁目(現大坂市今橋四丁目)に開設された懐徳堂五同志のひとり、道明寺屋吉左衛門こと富永芳春の四男として享保2年に生まれた。かれは懐徳堂開講と同時に入門し、幼年にして三宅石庵らの教えを受けている。ところが、同12年、池田の酒造家鍵屋荒木適翁の養子となり、池田の地に足をいれることになった。富永の家と荒木の家がどのような関係にあったかは不明であるが、適翁は三子が夭折したこともあり、蘭皐を迎えた。後適翁は二子に恵まれ、かれは別家を興すことになる。
 適翁は、桐江門下にあり、すでに把翠軒という軒号をもち、-これは孫の李谿に引き継がれるが-、桐江を経済的に後援するなど文雅に通じた人物でもあった。蘭皐は懐徳堂に通うかたわら、桐江のもとで詩文の才をみがき、多くの文人と交わり、池田での詩文の隆盛をもたらすことになる。
 蘭皐とともに池田文化、とくに漢詩文の隆盛に寄与した人物として『翁の文』などの著者であり、また、加上説を説いた当代屈指の思想家富永仲基の在在がある。かれは富永芳春の三男、つまり蘭皐の兄にあたる。やはり開設当初から懐徳堂で三宅石庵の教えを受け、天性の聡明さをもって称された人物である。かれの業績は、後に東洋学者内藤湖南や武内義雄らに大きな影響を与えたといわれている。
 かれは弟蘭皐との関係もあり、池田を頻繁に訪れ、桐江にも深い感化を受けた。この時期、桐江のもと、若い仲基・蘭皐兄弟が池田文化の隆盛に果たした役割はまことに計り知れないものがある。しかし、残念なことは仲基は延享3年(1746)32歳の若さでこの世を去ったことである。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ20-21より転載)  

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