荒木李谿

更新日:2021年02月01日

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荒木李谿筆『大東昭代詩紀』

(写真)大東昭代詩紀

(C)池田市教育委員会(池田市立歴史民俗資料館) 
(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録より) 

荒木李谿に関する池田市立歴史民俗資料館収蔵品

解説 (平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ21-25より転載)

荒木李谿の活躍:池田文化の盛期

池田文化、とくに漢詩文は桐江の到来、かれの遺志をついだ仲基・蘭皐兄弟によって隆盛へと導かれ、そしてここに蘭皐の子李谿の出現をもってその盛期を迎えることになった。
李谿72年の生涯は池田文化、漢詩文をもってその生涯を終えたといっても過言ではないといわれている。後年親交があった頼春水が、その才を絶賛したことはまさに的をえたものといえる。
李谿は、元文元年(1736)父蘭皐が江戸へ向かった年、内田町の鍵屋別宅把翠軒で生まれた。父蘭皐はかれを懐徳堂に人門させ、中井甃庵・五井蘭洲の薫陶を受けさせた。古楽を好み、書に勤しみ、また、幼年のころ後述する狩野派の画家勝部如春斎にも一時師事するなど、その才は多方面にわたったという。懐徳堂では、中井甃庵の子懐徳堂の中興四代学主中井竹山・履軒兄弟、また、三宅春楼・中井焦園をはじめ当時の大坂を代表する知己を得ることになる。一方で李谿は、当時池田にあった文人とも当然誼みを結んでいる。山川鳳陽・平野端的斎・稲束太忠・僧日初・呉春・葛野宜春斎・馬場仲文・山川星府などの名をあげることができる。いうならば、李谿は池田と大坂を結ぶ太い文化のパイプとしての役割をも果たしていたといえる。このことは、つぎに述べる福原五岳筆「洞庭湖図」屏風が如実に物語っている。

福原五岳筆「洞庭湖図」屏風

 池田学派の旗手たる李谿と大坂の密接な関係をもっともよく示す象徴的な資料として福原五岳筆「洞庭湖図」屏風をあげることができる。すでに肥田晧三氏らによって詳細な研究がなされ、大坂文芸史における第一級資料としての評価が与えられている。
 本屏風は、上述した荒木家と関係のあった池田の旧家に保管されていたもので、今から約25年ほどまえにはじめてその存在が公にされたものである。作者は福原五岳で、落款の記載から本図が安永元年(1772)43歳のとき、大坂の自身の居宅である楽聖草堂で描かれたことが読み取れる。
 五岳は、備後尾道のひとで、京都で池大雅に師事し、のち大坂に居を移している。五岳30代後半のことではとの想定がなされている。五岳の大坂での活躍は、大雅の第一の後継者として、また、大坂における文人画の先駆的な役割を果たした人物として高い評価が与えられている。
 ところで、今回の展示で本屏風が注目されることは、屏風自体もさることながら、画面上部に著された14名による賛にある。この14名のひとぴとは当時の大坂を代表する文人たちである。懐徳堂関係者の中井竹山・三宅春楼・中井履軒・中村両峰・早野仰斎、片山北海を盟主とする漢詩文の結社、混沌社の北海・葛子琴・頼春水・細合半斎・田中鳴門・鳥山■岳などのめんめんが洞庭湖を詠んだ詩文をよせている。
 混沌社は、明和2年(1765)佐々木魯庵・平沢旭山等の発起で、北海を盟主とした詩文結社である。同年9月16日に初会をもち、以後毎月16日の主要メンバーで構成される甲会、10日遅れの後進育成を目的とした乙会によって運営がなされていた。混沌社は、明和の後半から安永年間の10年余にその隆盛期を迎え、商人、武士、医師など幅広い階層にわたるひとぴとによって構成された。この段階で池田の荒木商山(李谿)がこの混沌社に参加しているのである。

李谿詩稿紙背文書

 これだけのことであれぱ、本屏風は当時の大坂文化を知る上で重要な資料であるとの評価で終わることになる。ところが、本屏風が池田文化の高さを象徴する資料となりえたのは故林田良平氏所蔵(現大阪市立博物館蔵)の李谿詩稿中にのこされた一枚の紙背文書であった。数奇な運命とはまさにこのようなことをいうものであろうか。
 紙背文書にはつぎのような内容が記載されている。「この洞庭湖図屏風は、わたし(李谿)の弟の茂が、師匠の福原五岳に依頼して画いてもらったものであるが、弟の茂がこの屏風に兄さんの友達の大坂の漢詩文の先生方に、洞庭湖の詩の賛をもらってほしいと頼んできた。そこで、わたしは自分の師友である、懐徳堂の先生方、あるいは混沌社の先生方に洞庭湖の詩を作ってくださることをお願いして、安永3年(1774)、初夏の一日に大坂北野の金氏の別業に諸先生を招待して、この屏風を広げ、先生方に詩の揮毫を願ったものである。」
 文中にいう金氏は金崎七右衛門、すなわち、尼崎屋七右衛門である。尼崎屋は道明寺屋とともに懐徳堂の設立、維持運営に際して経済的な後援者である。すでに述べたように、李谿は道明寺屋吉衛門の孫にあたり、この関係から大坂北野の金崎氏の別業においてこの会合が催されたと考えることができる。
 池田を代表する文人荒木李谿は、大坂北辺のいち在郷町の文人ではなく、懐徳堂に学ぴ、また、混沌社にも名を連ね、さらには、その中心人物を集合させうる人物であったことをここに示したものといえる。この紙背文書の存在が池田と大坂をみごとなまでに結ぴ付けた。
 江戸時代、宝暦年間から文政年間にかけて、一方に漢詩文・漢学が、その対極に呉春を中心とした俳諧があり、池田文化はその最盛期を迎えたといっても過言ではない。しかし、李谿が文化4年(1804)、さらに弟梅閭が同14年に没し、逆にその中心人物を失ったことによって衰徴を余儀なくされたことも事実である。池田には山川正宣を残すだけとなった。

(平成4年特別展『池田文化と大坂』図録ページ21-25より転載)

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