憚悟爐文庫の和歌・俳諧資料

更新日:2021年02月01日

ページID : 3305

憚悟爐文庫の和歌・俳諧資料

 本文庫資料には130点余りの和歌・俳句などの短冊が含まれている。本文庫は本来池田の商家に伝わったもので、その成立は江戸時代後期にあり、以降戦前までの資料から構成されている。本資料をもって池田の和歌・俳諧の全容を考えることは十分でないが、その特質の一端を示すものとして注目される。

和歌

 池田久安寺に隠棲した平間長雅の門人有賀長伯の孫長収・その子長基がのこした短冊があり、有賀家との関係が窺われる。また、香川景樹・その養父景柄の短冊もみられ桂園派との関係も知られる。とくに、景樹は和歌、古典学にすぐれ、寛政8年(1796)には従六位下に叙された当時歌壇の第一人者とされる人物である。両者はともに伊丹をはじめ北摂一円にとくに多くの門人を擁したといわれている。
 頼山陽の父惟寛(春水)の歌は、かれが同家に宿泊した際に残されたものとみられる。大坂にあったかれは、後述するように、池田の荒木李谿らと密接な関係をもったものでもあり、当然池田に足を運ぶことも多かったのではなかろうか。一方、幕末の伊丹の歌人であり国学者の中村良顕や同じく天誅組に参加した伴林光平の作品も残されている。このような資料から、江戸時代の池田の和歌は、京都、大坂、また伊丹などとの関係をもっていたことが知られる。
 幕末から低調となった池田歌壇ではあるが、明治なかぱ皆川庸匡が到来し、伊居太学館を開塾して和歌を教授している。かれのもとから戸田熊子・寺部君子らが輩出している。

俳諧

 一方、池田は江戸時代後期に呉春を迎えたこともあるが、本来俳諧が盛んな地でもあった。どのような経緯で本文庫に入ったかは不明であるが、江戸時代初期の玄仲、蕉門十哲のひとり丈草、伊丹の俳人鬼貫や蟻道の作品がある。また、これらは同家との直接の関係があったと推定されるが、士朗・呉老、幕末から明治にかけて京都の俳壇で活躍した芹舎らの作品も含まれている。
 しかし、注目されることは、むしろ近代でも大正・昭和に入っての作品群である。秋双・素石・南水らの作品である。やはり、池田は月斗をはじめとする大阪の俳人たちの強い影響下にあったことが知られている。本文庫には月斗の作品こそ含まれてはいないが、かれの周辺にあったひとぴとの作品が残されていることは興味深い。素石の句に管楯彦が絵を添えているものもある。
 このようにみてくると、これらの和歌・俳句短冊から江戸時代以降、和歌でみたと同様に、池田がもった大坂・京郡、また伊丹をはじめとする近隣地域との関係の一端を明らかにすることができる。むろん、いまだに具体的な関係を明確にしえない短冊も多く残されている。本文庫の成立背景から考えて、ここに収められた短冊は、当時の池田の文化的な広がりを裏付ける貴重な資料となりうるものである。

(池田市立歴史民俗資料館平成4年度特別展『池田文化と大阪』図録ページ11-13より転載)

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